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マーベル・ムーブメントの生みの親「中村恒也」

2016.07.25

1945年3月10日に空襲を受け、諏訪に疎開することとなった第二精工舎。

幸いなことに工作機械と部品は空襲を受けておりましたが整備が完了し、商品の製造が可能な状態でした。

 

そして以前にも紹介した『マーベル』を設計・開発された中村恒也氏も終戦の年に諏訪に赴任しております。

※以前の投稿記事:真の意味で開発を求められた『マーベル』

赴任直後は疎開した部品を使い女性用の腕時計を作り商品として出荷することになったそうですが、女性用はムーブメントのサイズも小さく組立が極めて難しく精度もあまり良くありませんでした。

 

そういった事もあり、不足した部品を作って男性用の時計も製造し始めます。

最初の製造は『新10型』と呼ばれるスイスのビューレンという時計のコピーを製造しています。

しかし部品の相互関係が理解できず「ただ作るだけ」という状況だったようです。今ではクォーツやスプリングドライブなどの開発や、オリジナル機構を持ち世界中で知れ渡っているセイコーですがそういった時代も経ているようです。しかしそれがまた市場に時計そのものがあまり出回っていない時期だったのでそれでもよく売れたようでした。

 

そうして部品がない状況から少しづつ着実に部品を自社でまかない時計作りのノウハウを蓄積していった第二精工舎の中村恒也氏。本中3針のスーパーを開発したあたりから精度や生産性を求め始めます。このころから中村恒也氏自身もだんだん時計が好きになっていき、構造もわかるようになってきたそうで、「自分も新しい時計を作りたい」と懇願し始めます。

 

当時中村氏は30歳そこそこで仕事にも慣れ始め、独自のものがやりたくなる時期でしたが、抑えつけられることなく上司から「おまえは思い切ってそれをやれ」と、理解ある上司に恵まれ『マーベル』の設計が始まります。

 

中村恒也氏が設計するマーベルはサイズの拡大や軸穴のズレを補正する構造の導入や、歯車形状の見直しなど頭に浮かんだ発想を楽しんで盛り込み、設計を行っていたそうです。

 

そして中村恒也の1から見直して作られた時計は、設計思想を持っていなかった当時のセイコーにとって、外国品の模造からの壁を打ち破った初めての時計でした。

 

”理想の時計とはなんだろう”という純粋な気持ちで時計を設計していった事が成功した秘訣だそうです。

”止まらなくて、時間が合って、デザインがいい”

それを目指して現在に繋がるクォーツの開発も行っています。

 

※こちらの情報は弊社独自で調査しており、また調べる中で年式などのずれもありました。あくまで参考程度に閲覧ください。

 

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